自分から見守ろうと決めた恋が気になってしょうがない。
彼女は泣いていないかなとか、怒っていないかな、とか。
そんなことを考えたからといって、自分が彼女とどうこうなるわけじゃないけれど。
ただ、いつも気になるんだ。
彼女が今日も笑っているかなって。
そして、そんなことを考える毎日に少しずつ飽きてきた。
今日の空模様は、「晴れのち曇り」。
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1.
退屈な大学の授業を抜け出して、いつもの場所へ行く。高等部の非常階段まで。
・・・・ほんの少しの期待を胸に秘めて。
司がニューヨークへ旅立ってからというもの、彼の彼女である「牧野つくし」と非常階段で会うことが多くなった。
以前と同じように。それはもうすでに俺の日課と言える。
学校のある晴れた日には、何となく足が高等部の方へ自然と向くのだ。
そして、下から非常階段を眺めて彼女の存在を確認する。
時々、何もない遠くの空をぼんやりと見上げている彼女の姿が見える。
なぜか俺には、彼女が何を考えているのかすぐわかってしまう。
大抵は司のことだ。
生き方の違う彼らをつなぐ唯一の約束は、司の『4年後に迎えに来る』という形のないもので。
時折、泣きそうな顔をして溜息をつく彼女の様子に胸が痛む。
それでも、そんなつながりを支えにいつも一生懸命に生きている彼女が、非常階段に来ている時だけ緊張の解けた顔をするのだ。
意地らしくて抱き締めたくなる。男ならきっと、誰だって。
涙を溜めて恋人に会いたいのを我慢している彼女に、『俺じゃ、ダメ?』って何度言いそうになっただろう。
でも、それじゃ牧野が困った顔をするのはわかっているから。
心の中に閉じ込めて永久に出すことはないと思っていた自分の気持ち。
それがいつのまにか溢れかけていたことに気が付いたのは、
いつものように、カッターナイフで彼女の髪を切っていた時だった。
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「・・・伸びたね、髪。」
「うん。・・・こうやって花沢類に切ってもらうの、何回目かな?」
そう言って、俺に背中を向けて言う牧野。華奢な肩にかかる位だった髪は、少しずつではあるが確実に伸びてきている。
彼女の黒い髪を丁寧にカッターで切りながら俺は答える。
「・・・うーん、もう忘れた・・・・・・それにしても、相変わらずサロンに行くお金ないんだね。」
「・・・余計なお世話。・・・だって花沢類、上手いんだもん。わざわざお店に行くのももったいないし。」
「ま、あんたらしいけどね。俺も人の髪切るの、嫌いじゃないし。」
「・・・何ていうか、やっぱり花沢類って変わってるよね。そういうとこ。上手く言えないけどさ。
・・・あ、もちろんこれは誉め言葉ね?」
慌てたように言葉を付け加える彼女に、俺は笑いながら言葉を返した。
「どうも。牧野ほどじゃないけどね。」
「・・・どういう意味よ?」
俺の言葉に不満の声をもらす牧野の様子に、俺はくすっと笑いながら髪を切りつづけた。
いつだったか牧野が言っていた。司が帰って来るまで、髪を伸ばし続けるんだと。
「4年間を無事乗り切れるように」、という彼女なりの一種の願掛けらしい。
「お金がない」と言えばそれまでだけど、その発想が何とも牧野らしくて俺は少し嬉しかった。
同時に、彼女にそんな風に思われている司が少し妬ましくもあったけれど。
「・・・前髪も伸びてきたなぁ。」
髪をつまみながらボソリと呟いた牧野の言葉に、俺は思わず昔のことを思い出してプッと吹き出してしまった。
「な、何?花沢類。」
そういえば、もともと髪を切ることになったのも・・・。
「思い出した・・金太郎カット・・・。そんなこともあったよね。前髪そろってたし。」
「! あれは、しょうがないじゃない。あたし不器用なんだし。なかなか上手くならないんだもん。」
「・・・ププッ。牧野が金太郎かぁ。あの時はそんなにピンとこなかったけど、今ならさしずめ司は熊か。・・・さすが猛獣使い。」
手を止めて笑い続ける俺が珍しくて怒りを忘れたのか、振り返って呆れて見ている牧野。
そろそろ真面目にやらないと本当に怒りのスイッチを押しちゃうかな。
「・・・さて、と。ごめんごめん。こっち向きなよ。前髪も切ってやるから。」
「〜〜それだけ笑ったからには、ちゃんと切ってくれるんでしょうね?」
「多分ね。さ、目をつぶって。」
「本当に大丈夫かなぁ」という疑いの表情のまま向かい合うと、言われた通り目を閉じた牧野の前髪に触れる。
近づきすぎて、見なくていいことも見てしまうほどに。
・・・あ、良く見ると長いまつげ。
肌、白いんだ。ほっぺた、やわらかそう。
・・・唇、リップ塗ってる?
―――キスしたら、怒るかな。
前髪にカッターを入れつつ、そんなことをぼんやりと思いながらまじまじと見つめている俺に気付いたのか、
薄目を開けた牧野と目が合ってしまった。
「・・・・・・あんまりそんな目で見ないでくれる?ちょっと恥ずかしいんだけど。」
少し赤くなってそう訴える彼女に、俺はにこっと笑いながら言った。
「・・・へー、牧野でもそんな風に思うんだ。・・・あんたって、実は良く見るとかわいいんだなって思って。
いや、かわいくなったのか。」
「・・・『あたしでも』って何よ。花沢類。今日変だよ?熱でもあるんじゃないの?」
昔なら赤くなって固まったものだったが、牧野もいろいろあって変わったのかもしれない。
しょうがないなぁと、手を伸ばして当たり前のように俺の額に触れた。
それは世話のかかる弟にする動作のように感じて。それが少し不満だった。
―――欲しいのは、そういうのじゃない。
思わず俺の額に触れた彼女の手を取ってしまった。
カッターをコンクリートの上に置いて、もう一方の手で切ったばかりの彼女の前髪を払う。
唇についた髪を取るために、人差し指で彼女の唇をそっとなぞった。
驚きか、緊張か、少しだけ目を大きくさせて言葉を失って固まったままの彼女。
俺の視線の先には、少し開いた彼女の唇。
この瞬間、彼女が考えているのは多分俺のことだけ。
こんな時に、昔、司がニューヨークへ出発する前に俺に言った言葉を思い出してしまう。
―――牧野は隙だらけだから。・・・お前にこんなことを頼むなんて変だけど・・・・・・類、牧野のこと見てやって。
・・・・・・さすが、司。牧野のことよくわかってるよ。でも、もう遅すぎる。
牧野の閉じかけた唇の端まで人差し指を滑らせると、そのまま彼女の頬にそっと触れる。
心臓は嫌になるほど、なぜか静かだ。牧野の瞳に映る俺が見える。
彼女の瞳が怯えたように揺れて。
今、俺はどんな表情をしているのだろう?
彼女が我に返ったのか先なのか、俺が彼女を引き寄せたのが早かったのか。
・・・何か言おうとした彼女の言葉を俺は黙らせるかのように、唇で、塞いだ。
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重なったのはほんの一瞬だった。でも、俺の中でずっと変わらなかった一番大切なことを思い出した。
フラッシュバックのように、ニューヨークで牧野と過ごした時間がよみがえる。
ゆっくりと彼女の顔を見ると、ただただ呆然としていた。ニューヨークでキスをした時と同じ。
「牧野?」
呼びかけると、我に返ったのか後ろ手に後ずさりし、顔を真っ赤にさせ口をぱくぱくさせている。
「・・・は、は、花沢類!」
「あい。」
「・・・『あい』じゃないっ!何でキスすんのよっ!」
「かわいかったから。それだけ。」
またこの人は・・・と牧野は呆れた表情をすると、ハーッと溜息を吐いた。
「・・・あたしの気持ち知ってるよね?」
「うん。」
「だったら、何で・・・。」
「・・・だったら、キスしちゃいけない?」
親友を裏切ったことは確かなのに、どこからこの余裕が生まれてくるのかわからなかった。
突然のことに取り乱す牧野を見て、驚くほど冷静な気持ちになっている。
「・・・俺、牧野のこと、好きだよ。」
「・・・それは前に聞いたけど・・・。」
牧野が困ったように目をそらす。俺はまっすぐ彼女を見据えた。
「牧野は司が好きだ・・・今はね。」
俺の台詞に彼女は顔を上げた。
「・・・牧野が司と幸せになるまでずっと見守ろうと思ってた。司を裏切れないから。司を好きなあんたも。
けど、自分の本当の気持ちがわかった。」
冷たいコンクリートの非常階段に、俺の声だけが響く。
牧野はどうしていいかわからずに、両手をスカートの上で握り締めている。
「司には悪いけど・・・」
「ストップ!!」
突然、牧野が大きな声を出して遮った。だけど俺は、やめなかった。
「司が本当に迎えに来るとわかるまで、牧野のこと諦めない。」
「何で・・・」
「俺は今でも、あんたが笑っていれたらそれでいいって思ってる・・・それが司とじゃなくても。
牧野は、俺のこと、嫌い?」
俺の問いかけに彼女は困ったように首を振った。
「・・・嫌いじゃない。むしろ感謝してるけど・・・でも、そんなことを言う花沢類は嫌い。」
「・・・ハハ・・・。さすがはっきり言うね。でも自分の気持ちに嘘を付けないのは、俺だって牧野と一緒だよ。」
その言葉にハッとしたように、牧野は俺を見た。
「・・・宣戦布告。」
俺はそう言うと、彼女の額を人差し指ではじいた。彼女は「イタっ」と顔をしかめて俺を睨んだ。
「何を・・・」
短くなった前髪のあたりを押さえている彼女から逃げるように、俺は立ち上がる。
「・・・俺なら司よりあんたのいつもそばにいてやれるし、守ってやれる。牧野の気持ちをきっと、俺に向かせるから。」
「え・・・」
「覚悟しといてよ。」
俺はかがむと、彼女の額にまたキスをした。
「ひゃっ!また・・・もう、花沢類!!」
真っ赤な顔をして俺を睨む彼女に、俺は背を向けて非常階段を降りて行った。
「〜〜あたしは、負けないんだからねー!」
いつか見た「王様の耳はロバの耳」みたいに叫ぶ彼女の姿。
・・・あの時はF4への悪口雑言だったけど。
久しぶりに聞く彼女の元気な声に、俺は笑いながら手を振った。